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働きたくても働けない。カウンセリングとの出会い、自分にできることに気づく 自分のせいで我慢を重ねてきた弟や親にもう負担をかけたくない。ある日の夕食時、家族に向かって叫んだ。「何でこんなに辛い思いをしてまで生きなきゃダメなの? もう死にたい!」。その翌日、弟が枕に顔をうずめて声を殺して泣いていたと聞いて、初めて気づいた。「死んじゃいけないんだ…」。治療に専念しようと思った。25歳だった。 ウィングス京都に足を運んで見つけたあるカウンセリング教室。カウンセラーを前に、「私を変えられるなら変えてみなさ〜い」と心で思いながらも、かすかな希望にすがる思いで勉強を始める。 それでもコンビニや喫茶店、内職などのバイトを始めては辞める2年間を経た27歳の秋、体が発疹で覆われた。「薬疹」。入院中に1人では寂しいだろうと毎日見舞いに来た父。母は何も言わないのに欲しいものをもって来てくれる。初めて「無償の愛」を感じた。病室の窓から小さな家並みを眺めると、自分自身がちっぽけに見えた。 翌年春に出かけた鹿児島でのカウンセラー合宿で知り合った多重人格の男性と文通を始める。手紙の中に書かれた詩の、ある一節に目が留まった。「私は精神障害という『恵み』を受けました」。ハッとする思いだった。 「マイペースで行こなぁ」「頑張り過ぎんとこな」。手紙をもらうたび、初めて自分の苦しさを同じように理解してくれていると思えて心の支えになる。「私が自分自身を受け容れれば、こんな私にも何かできるのかもしれない」と思えてきた。多くの人の力を借りて薬は10錠くらいまで減っていった。 本当に社会復帰ができるの?勇気を出して働き始めた職場の店長と仲間がくれた「信頼」。 30歳を前にした2002年1月、自宅近くで「びっくりドンキー」がオープンすることを知り、勇気を出してパート勤めを始める。しかしやはり人間関係に過敏になって休みが重なっていったある日、店長から「一度顔を出しに来いひんか」と呼び出される。クビを覚悟して店長の前に座ると言われた。「辞めてもまたほかで働くのなら、ここで頑張ればええやん」。 恐る恐る久しぶりのスタッフルームにも顔を出すと1人の高校生バイトが駆け寄った。「キャー、もう大丈夫なんですか?」。みんなの気持ちがうれしくてたまらない。少しずつ自分を励ましながら働けるようになった。1年後の2003年末にはついに薬を絶ち、9年間の不眠症を克服した。 今は温かいスタッフに囲まれて週5〜6回、5時間昼間に働く。オープニング時の研修中に4〜5日休んだとき、「湯浅は必ず帰ってくる!みんなで開店を迎えられるよ」と店長が言っていたと、仲間から聞いた。店長は自分の「働きたい気持ち」をシッカリ受け止めてくれていたように思った。 「お客様や仲間からもらう元気を、精一杯の接客や笑顔でお返ししたい」。そのためにまず、毎日を精一杯頑張ったと自分に微笑み返せるよう頑張ろう。この5年間コツコツと勉強したカウンセリングの資格ももうすぐ取れそうな段階までこぎつけた。 うまくいかないことは周囲や病気のせいにして未来を悲観してばかりいた。そして自分のことしか見えなくなっていた20代。人生に算数のような答えはなく、「今できること」を積み重ねていくしかない。自分の経験を通してカウンセリングの形で誰かの役に立ちたいという夢ができた。それが叶うのがいつになるかは問題じゃない。そんなことを本当に多くの人からの愛情で気づかされた。 「この取材が、同じように苦しんでいる人の何かのお役に立てばうれしいんです」。毎日の「爆睡」で血色が戻った満面の笑顔で語ってくれた。今は「B`z」の歌詞が特にお気に入りだ。 物語に関するご感想などをぜひお寄せください。 |
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