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障害の再発。父に追いつけない苦悩を抱えたまま、大学病院でたくましく「生きる」人たちを見た。

 24歳になって骨髄炎が発症して再び足に悩まされ始める。「治る可能性もあるんだ」という医者の言葉に、毎年3カ月前後の入院をくり返す。「息子さんやなかったらとっくにクビや」と言う周囲の声に耐え、熱にハアハアうなされながらも入院前日の深夜まで仕事に打ち込んだ。
 しかし入院で極端な暇ができると、今度は後継者としてのプレッシャーがのしかかってくる。自分が開拓した顧客もなければ、得意先の呉服業界の倒産も相次いでいる。友人・知人たちは、引き継いだ会社をつぶしてしまうかもしれない恐怖をわかってはくれない。
 20代も後半になってきていて、夢中に取り組んだ業務の中で技術は向上している。しかし自信がある企画でも1人では顧客を説得できない。クレームが起きるとオロオロするばかり。「こいつはこんなもんですわ」と顧客に話す父に向かって、「辞めてやらあ」と怒鳴った。ほんの少しずつしか父に追いついていない自分がみじめだった。「もっと早く成長したい。足の不安さえなければ…」。
 そんないらだちが募るなかで大学病院へ転院した。自宅療養の寂しさに、酔っ払っては悪態をついて看護師の気を引こうとする中年男性がいた。ただただおしゃべりで気を紛らわせて、子どもに臓器を提供するために、数年もの入院生活に耐え続ける人もいた。
 生きる術を、恥をかこうが、みっともなかろうが、自分で切り開いている「たくましい」人たちを目の当たりにするなか、激痛と高熱で集中治療室に運び込まれた。「息をしてないぞ!」。遠のく意識のなか医者の声が聞こえる。ついに足の切断を余儀なくされた。切ってしまえば楽になるのはわかっていた。しかし楽になることが目的じゃない。可能性がある限りもがきたかった。29歳になっていた。


足の不安からの解放。現実のとてつもない苦労を覚悟して30歳で再スタートラインに。

 入院の不安から解消されて全身全霊で仕事に打ち込める自分があった。会社を「引き継がれる」のではなく、「引き継いでいく」ための構想が次々と頭に浮かんでくる。顧客から印刷物そのもの以外の相談をもちかけられて販促ツール制作や集客イベントなどを提案する。大手企業のコンペにも積極的に参加する。厳しく育ててくれた父が「お前の替わりがいない」と言ってくれた。
 歴史上の人物が乗り越えていった苦労を活字上では理解していた。だが現実は小説を読むような短時間で解決していかない。物事の理屈も頭ではわかっていて人に言うのは簡単だった。しかし自分が当事者になったときに思ったようには進まない。「恥」を知ることの大切さを思い知らされた10年間。
 安易に決断するのは簡単。しかし可能性がある限り、目の前のことから逃げ出さずに実力をつけてきた。その姿勢があればどんな状況に追い込まれても、たくましく「生きていける」ような気がする。
 30歳のときに義足を引きずりながら東京で見学したインテリアギャラリーに感銘を受けた。和紙の可能性はまだまだ認識されていない。いずれは和紙ギャラリーを作りたい。「40〜50代のように、仕事や家庭の重い責任に縛られながら頑張っていきたいんです。偉大になるためでなく、より生きている実感を味わうために。そんな自信だけはできました」。そう静かに語ってくれた。


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