|
社会に出て自信を打ち砕かれた。15歳で患った右足の
障害に耐えるなか、後継者という重圧ものしかかる。 28歳で人間模様が渦巻く大学病院に転院した。 |
|
![]() |
「苦労を乗り越えて偉大な人になるんだ」と幼な心に思い込み、15歳のとき足に障害をもっても大人になるのが楽しみだった。父の会社に入社しても単純作業しか任せてもらえない。ミスを連発する「できない」自分に愕然とした。地道にスキルアップを図るなかで病気が再発。入院で極端な暇ができると後継者というプレッシャーに襲われてしまう。 田中 秀典さん 32歳 京都市在住 [和詩倶楽部(中京区) 企画制作ディレクター] |
|
15歳で足に障害を負った。難題を解決していく自分を想像して父の会社に入社した。 仕切り屋だった子供時代。NHKのスポーツ教室を見て理屈は身につけても自分では競技には手を出さない。遠足ではフラフラと単独行動し、遊びでも学級活動でも、先頭には立たずに横から口出しをしては、思ったように物事が進み始めると興味を失ってしまった。中学に入っても夢中になるものは見つからず、惰性で塾やボーイスカウト活動に通い、周りに流されるままにやんちゃをしていた。 その一方で、豊臣秀吉などの苦労を乗り越えて大成していく立志伝を読みあさり、「僕は、苦労を次々と乗り越えて、誰からも認められる偉大な人になる人間なんだ」と思っていた。 会社勤めをする傍ら和紙加工品を扱う商売を始めていた父の後ろをついて回っていた。夕食の席でその日の仕事のことを夢中になって相談し合う両親。商売を少しずつ大きくさせていく姿を見ながら、「将来は父の仕事を手伝おう。僕ならもっとうまくやれるぞ」と思った。 高校でスキー部に入り、自分の意思でようやくやりたいことを見つけたと思った矢先の7月、ひざに骨肉腫が見つかって入院生活を強いられる。同じ病気の患者は、患部を切り落としたり、亡くなったりしていく。しかし「これも偉い大人になっていくためのエピソードなんだ」と思えた。決して荒れたりすることもなく、手術や抗ガン剤の副作用に耐えて1年間の治療に専念した。 同級生が2年に進級するなかで1年生として復学。松葉杖をつく自分を見る周囲の好奇の目が怖いし、恥ずかしい。しかし「こんなことで引きこもってしまうような小者じゃない」と、友人も少ない学校へ通った。会社を辞めて商売に専念した父の職場で帳簿つけなどのアルバイトをして少し大人気分を味わった。 「何もできない」。入社してすぐに逃げ出したいと思った。初歩的なミスをくり返した。 短大卒業後すぐに父の会社である和詩倶楽部に入社する。大学生の友人より早く社会人になれる。「いよいよサクセスストーリーの始まりだ」と胸が躍る。しかし任されるのは、ヒモ結びなどの単純作業とバイト時代の延長の仕事。「もっと充実した仕事をさせてくれ」と訴えても、「役立たずが何を言ってるんだ!」と一蹴された。そのヒモ結びすらうまくできない。商品チラシの価格や展示会ポスターの日付を間違える致命的なミスの連続。次々と大量の返品を運び込む大型トラック。倉庫一杯に山積みになった印刷物に訂正シールを貼るアルバイトたち。「プロになれないのかもしれない…」。周囲の人からの「金だけもらえていい身分だな」というからかいの言葉。恥ずかしくて何度も辞めてしまいたいと思った。今まで想像していた、「苦労を次々と克服していく」自分との大きすぎるギャップ。 会社では和紙を使った印刷物の制作を外注デザイナーを使って請け負い始めていた。「商売の幅を広げるためにデザイン技術を学ぶことが今の自分にできることかもしれない」。取引先のデザイン事務所に出向して、専門書を読んだり、MACの作業を眺めては知識を蓄積していった。夜は会社に戻っては働き、扱い額は小さくても商談から納品までを任されて、仕事が楽しくなっていく。出向が終わっても独学でスキルアップに励み、それを後輩たちに指導していった。自分から進んで動いたことが形になる手応え。仕事の合間を縫ってコピーライター養成の専門学校にも通い、「無力さ」を痛感しながらもただただ3年間をもがきまわった。 次のページヘ |
|
ページ: 1 | 2
|