広い視野を求めて出会った演劇にのめり込んだが、
生計の見込みは立たなかった。26歳から看護学校に通って資格は得ても、
職場になじめず眠れない日々。

学生時代は複数の部活をかけ持ちして、仲間の調整役として過ごした。演劇を続けるためにバイト生活を始めて4年後の26歳から、手に職をつけようと3年間の看護学校に入学。しかし資格を得て京都南病院で働き始めても、限られた人間関係の中で自分らしく振舞えない。手話サークルや院内劇を立ち上げても、患者とシッカリ向き合う時間が取れない。

谷 進一さん 33歳 京都市在住
京都南病院老人保健施設ぬくもりの里(下京区)
[看護師]

高校では5つもの部活をかけ持つ。大学で「ずっと演劇を続けたい」と思った。

 大好きなガンダムやヤマトなどのマンガを描いたノートは15冊。テストの裏に同級生の顔を描いて喜ばせる小学生。親友と外を走り回り、吉本新喜劇やジャッキー・チェンに夢中になり、鉄道模型づくりや古銭収集などまで楽しんだ。
  子ども3人を育てるためにコツコツと働く寡黙な両親から勤労の大切さを学んだが、大手関連メーカーの技能士の父は会社と近所の仲間だけの世界で暮らしている。些細なことで怒鳴りつけ、「挨拶をしなさい」と注意はするが、子どもの進路には無関心だった。
  中学ではマンガ部の傍ら陸上部でクラブ新聞を作り、自作の年賀状が同級生に喜ばれるのもうれしい。遊びではみんなの意見を聞く調整役。友人の親が話してくれる美術や仏教などの広い知識にワクワクしながら耳を傾けては、「うちはつまらないな」と思った。ときには物を投げて押さえ付ける父が嫌で家出もした。
  高校でも視野を広げたくて陸上など5つの部活をかけ持った。新聞部に友人たちを引き入れて部長も務め、先生に頼まれて入った演劇部では観客に喜ばれることがうれしい。考え方を押し付けない美術部の顧問の助言通りに勉強して、親の負担を考えて自宅から通える有名私大に進学した。
  陸上を続けながらも、学内の劇団でポスター制作などの裏方作業にも熱を入れて2年で座長になる。真剣さが足りないメンバーをまとめることに苦労するが、夢を熱く語る多くの他大学の劇団員との交流も深まって、役を通して違う自分と出会える演劇にますますのめり込んでいった。
  就職活動をしても、一つの仕事に夢中に取り組む自分の姿が想像できず、演劇に理解あるオーナーが営むお好み焼き店でのバイトを続ける道を選んだ。何も言わない両親に代わって、「30歳までには定職に就きなさい」と、親戚が助言してくれた。


バイトでの接客を楽しみながら演劇を続けるが、26歳にして看護学校に入学した。

 知り合いの劇団に助っ人で出演しながらバイト仲間と接客を楽しむ。ときおり訪れる両親をはじめ、自分目当ての常連客も増えてくる。しかし、2年後にオーナーから「代わりにお店をやらない?」と誘われると、「演劇と両立できない」と、迷いながらも断った。今度は弁当移動販売のバイトで仕事のコツを掴んでいき、その働きぶりにまた経営者からの信頼も深まった。
  23歳から参加した劇団の指導者はプロの俳優。テレビ出演の機会や芸能界の知り合いもできて、あるとき大物俳優の付き人話が舞い込んだ。「これをキッカケに役者で生活できるかも…」。高まる期待に有名劇作家の舞台出演のチャンスさえ断ったその話が白紙に戻ってしまう。好機を失った絶望感に打ちひしがれた。
  「浮き沈みの激しい芸能界は勧められないけど、演劇を長く続けたいなら手に職をつけなさい」。以前からまじめな姿勢を買ってくれて、親身に助言をくれていた小説家の言葉が胸に響く。大工の仕事まで紹介してくれた。
  「どうせなら人との接点が多い仕事の資格が欲しい」と、すぐに情報誌を読みあさって、以前から興味を持っていた医療の世界の「看護師」に目が留まった。「これなら今からでも間に合うかもしれない」と思った。社会へ出て既に3年の月日が経っていた。
  転職活動に苦労する友人や看護師の知人に話を聞いて決意を固めた看護学校受験は全敗。それでもすぐに新聞で見つけた看護助手の仕事をしながら一日5〜6時間勉強する1年間。「君ならいい看護師になるよ」という患者の言葉を励みに、26歳にして3年制の学校に合格した。


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