石垣島で「逃げている自分」に気づいて、
関西で菓子チェーン店の立ち上げを経て、
26歳で機械技術者への道に踏み出す。しかし工具の名前もわからない。

家業を継ぐこともできず、大学の進学も見送って石垣島で半年を過ごした。関西に戻って菓子チェーン店の立ち上げに4年半没頭し、業務請負で様々な仕事を見て、26歳で偶然に出会った機械技術者への道に挑戦した。ベテランの先輩から罵声を浴びせられて、「もっと早くにこの世界に入っていれば…」とも思うが「後には引けない」と歯を食いしばった。

大西 研太郎さん 31歳 八幡市在住
セファテクノロジー株式会社(久世郡久御山町)
[システム技術部 装置技術課]

長男として家業の金属工場を継ぎたかった。自分の将来を見通せない青少年期。

 放課後に塾に行く同級生を横目に、年中まっ黒に日焼けしているほど校庭や八幡河川敷で遊び回って、工作や理科の実験が大好きな小学生だった。
 呉服商社を辞めて祖父から金属工場を継いだ父は、合理的に仕事を進めて毎日5時には切り上げて夕飯を一家で囲む。兄弟にそれぞれ違う勉強机を作ってくれたり、車を改造しては鹿児島まで家族旅行に連れて行ってくれる。地域活動にも参加するなど交友関係が広いことも尊敬していた。
 父が読む本や新聞を辞書片手に解読して、工場に行って仕事も楽しく手伝った。長男意識から小6のときに工場を継ぎたいと言うと、「もう将来性がないからダメだよ」という父の言葉。「認められていない…」とショックに感じた。
 中距離走に自信があって、中学では陸上に打ち込んだが1年で退部。没頭できるものを失って好きな本も読まなくなり、ポリシーを持つ人気者の不良たちがうらやましい。親の心配をよそに自室で一人ブルーハーツの「終わらない歌」に共感していた。
 工場経営が厳しくなるなかでも親が無理をして進学させてくれた私立高校では吹奏楽部に入部。数十人で演奏する一体感が楽しくて、一日も休まずに自主的に朝練もする。パートリーダーとして、顧問が求めるレベルに向けて脱毛するほどのストレスを乗り越えて後輩を引っ張り、3年で関西コンクールで金賞。バンドも組んでポップスの曲は必ず独自にアレンジして演奏した。両親は「いいもの見つけたね」と言ってくれた。
 音楽のプロの道への誘いも断って大学を目指すが部活漬けで受験は全敗。予備校でも友人との遊びに夢中でろくに勉強せず、そんな姿勢で受かった私立に進みたくなくて、弟2人のことも考えて進学は断念した。


父から誘われた菓子チェーン店で業務に没頭。セファの工場で今後の道を見つけた。

 自分を見失って石垣島に飛んでホテルで接客のバイトをした。ゆったりと流れる現地の空気の中で、同じような心境でやってきている仲間たちとの交流や接客は楽しくて、社員にも誘われた。しかし、しだいに「ここにいるのは逃げだ」と思えて、「活力みなぎる関西で何でもやってやろう」と半年間で実家に舞い戻った。
 宮大工に興味を持って関係者に尋ねると、「20歳じゃあもう遅い」と言われて進む道を模索する2ヵ月間。ある日、夜遅く帰宅した父から、工場を閉じて知人と洋菓子チェーン店を立ち上げると打ち明けられた。「お前も手伝わないか」と誘われて、認めてもらえた気がして入社した。
 駅前の店舗で自分で菓子を焼いて販売するのが楽しい。覚えることも多くて何度もやけどもすれば、酔っ払った客に代金を投げつけられたりもする。しかし、店長にもなって、新規店の立ち上げを任されて充実した2年間。朝8時から24時まで、ほとんど休みなくフラフラになりながら働いた。
 しかし、3年目になると社長の経営姿勢に疑問を感じ始める。現場の声も聞かなければ、品質の粗さも認めようとせず、パートに「赤字で給与支払いが難しい」とヤル気を削ぐ発言を平気でする。社員でも雇用保険や労災もない待遇の改善を何度求めても、「いずれ考える」とくり返すだけ。25歳で見切って退職した。
 30歳までは求人もある、と思っていろいろな仕事を見るために業務請負会社に登録した。電池工場での梱包作業や、木工工場で木屑まみれになって働いた。体はキツクても様々な人々と出会えて新しい機械に触れることが楽しかった。
 しかし、次の塗料工場では洗浄用シンナーの吸い過ぎで倒れて、慌てて転職活動するなかでセファテクノロジーに出会う。見学した現場では父の工場と同じ油の匂いがした。「これや!」と、探していた仕事に巡り合ったような気がした。
 「丁稚からの覚悟やったら一から面倒を見る」と面接で言ってもらえて、26歳で入社した。

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