父の大病で、「やりたい道を進もう」と20歳で決意した。
29歳でようやくその道を見つけるが、任された責任ある業務は投げ出せない。
あせりと不安の2年間。

やりたい仕事がわからないまま大手損保会社に就職。周囲に気配りができる先輩に出会って仕事のスタイルを教わり、5年間営業事務として職務をまっとうした。上司の紹介で同業の代理店に転職。リーダーやインターンシップ担当に抜擢され、責任ある仕事に没頭するが「この仕事をしたくて前の会社を辞めたんじゃない」という思いが募る。

岡 貴子さん 33歳 長岡京市在住
[オムロン パーソネル株式会社(下京区)派遣営業グループ 人材開発チーム]

将来の目標が見出せない。それでも進路はいつも自分の意志で決めてきた。

 東京で華やかなOL生活を謳歌して、結婚後は家庭に収まった母。若々しくてお洒落で家事も完璧。PTAなどの地域活動にも熱心で、毎晩一家揃って食卓を囲み、休日には父と相談して六甲や動物園へ連れて行ってくれるその姿が楽しそうに見えた。
 同じ団地の幅広い年代の多くの友人と遊んだ。運動が苦手でもみんなに交わって球技をして、頼まれると断れなくて学級委員を務めたこともある。「何事も我慢強く続けなさい」と母に言われるままに習字やピアノ、水泳を長年習い続けた。「中学を出たら進路は好きにしなさい」と言う両親。ただ、将来の夢は思い浮かばなかった。
 中1のころ、大病を患った父の健康療法に母が突然のめり込み、両親がケンカがちになる。そこまでする母の気持ちが理解できない。学校で標準語混じりの言葉使いをからかわれてからは、「先生の期待に応えなければ」とまじめに振舞い、TVやアイドルの話題に興じる友人たちに同調する自分に違和感を募らせた。卓球部ではつまらなくても黙々と練習を続けるが、顧問の指導に納得できず反抗してぶたれたこともあった。
 そんな環境を変えたくて、毎日深夜3時まで勉強して私大の付属高に進学。県外からも集まる個性的な友人たちが将来の夢を熱心に語る姿を見て、目標のない自分がもどかしい。
 ミーハー心で入った放送部では番組づくりに夢中になった。エスカレーター式の進学に納得できず受験で入った兵庫の有名私大では、興味を抱いた社会心理学を懸命に学び、ゼミや短期留学、サークルなどを楽しんだ。
 20歳のときに、これから好きなことができるはずの定年を目前にした父の病が末期ガンだと知る。「私は後悔のないよう好きな道に進もう」と思ったが、まだ自分の望む仕事は思い浮かばない。父のコネには頼りたくなくて、親しい先輩に「女性でも責任ある業務ができる」と聞いた大手損保会社に、営業事務として入社した。


周囲の人のために働く先輩に感銘を受ける。相手の立場に立った行動を意識した。

 社員6人の小さな支社に配属される。怒鳴り込んでくる顧客には言いなりで、クレーム電話にも素知らぬ顔の上司。取引を長く続けてなれ合い関係の代理店に押し付けられる書類作成などで3〜4時間残業する毎日。半年もすると、40代になっても自分と同じ業務内容の先輩を見て、「これがずっと続くのか」との不安も募ってくる。同期や学生時代の友人と休日を楽しんでは気を紛らわせた。
 どんな業務でも嫌な顔もせず引き受けて困っている人に進んで声をかけるベテランの先輩は、後輩への指導も丁寧で周囲からの信頼も厚い。「なぜそこまで人の支えになれるの?」と感激はするが、「私は相手のためにも言うべきことは伝えよう」と思った。
 面倒な業務を押し付けようとする代理店に不満を言われても、あきらめずに保険料の計算や書類作成の方法を教え続ける。するとしだいに信頼を得られて、「頼りになるね」と飲みに誘われる機会も増えていった。
 しかし、先の見えない業務、学ぶところのない上司。入退院をくり返す父のそばにいたくて、3年目に退職を申し出た。上司に引き止められて気分転換感覚の異動になると、代理店から噂を聞いていた面識のない顧客までもが送別会を開いてくれた。
 異動先ではこれまでの業務に加えてパート管理を担当。書類整理などを営業マンに何度も働きかけて徹底したりと、パートが働きやすいように工夫をすると「楽になったわ」と喜ばれたが、今度も目標となる上司は見当たらない。「父が落ち着いたら留学でもしようかな」と考えていた27歳のとき、ついに決まった退職を直前にして父が他界する。葬儀に参列してくれた取引先や社内の人々。「私はこんなに多くの人に支えられてきたんだ」と思った。


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