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低迷する呉服業界の中で、後輩もできないままに |
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呉服商の祖父を見て育ち、仲間と一緒になってクラブ活動などに明け暮れた青少年期。京朋に入社して上司や先輩からも顧客を大切にする姿勢を学び、後輩もできないなかで一人業績とスキルを積み上げた。営業と企画職を兼任して膨大な仕事量をこなしながら、会社の体制変更を訴えるが簡単には受け入れられない。少しずつ仕事が横着になっていく。 西林 誠司さん 30歳 京都市在住 [京朋株式会社(中京区)企画第一グループ 商品部] |
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仲間と共に何かをする楽しさを感じた学生時代。同じ感覚を得た京朋に入社する。 大阪の下町に育った。呉服商の祖父は、問屋なのに個人客に誂え物を作り、「店の商品を全部買う」と言う父が連れてきた客を「なじみ客に迷惑だ」と断る頑固さがかっこよかった。土日や夏休みに店や大きな展示会に行けるのがうれしかった。 両親からは何も口うるさく言われず、習字や公文塾には6年間通って成績もよいが、好きなマンガは全巻揃えてプラモを作っては途中で飽きて仕上げは父親任せ。夕食後も居間を離れず甘えて過ごしていた。 中学に入ると、「学生は教えがいがない」と大学助教授を辞めて塾を開いた先生の指導通りに教科書の反復学習を実践すると、必ず成績が上がって努力は結果に出ると実感する。塾帰りにガレージや友人宅で仲間と何時間も話し込み、部屋では長渕剛の歌を好んで聞いていた。 地区一番の進学校に進むとテニス部漬けの毎日。他校に教師として勤めるコーチや学生OBたちの説教をまじめに聞くとかわいがられて、自宅に遊びに行ったり、一緒に頻繁に街にくり出した。 仕事がラクそうなコーチを見て教師になろうと、一浪の後に滋賀の国立大の教育学部へ。入ったボート部では年中合宿状態で、朝夕に練習しながらの家族のような共同生活が楽しい。体育会役員にもなって、「おもしろいことやろうぜ」と学園祭を企画して学生生活を満喫した。 しかし、主将になって50人近い部員をまとめるのに悩まされた。体育会の友人が、「もう辞めたい」と愚痴る後輩たちに「西林に協力してやれよ」と助言してくれていた。 募集がほとんどない教職をあきらめてイベント会社を中心に就職活動。届いたDMの中の「非常識を常識に変える!」という言葉に魅かれて、戦後創業ながら業界で高いシェアを誇り、呉服メーカーとしての常に新しい挑戦を続ける京朋に入社を決めた。 上司や先輩の指導を受けて自分で確立させた信念を大切に、一人突っ走った。 バブル崩壊でそれまでの商慣習から脱皮できない取引先が次々に倒産して、京朋も生き残りをかけて組織のスリム化を図っていた。そんななかでも上司から「自分で考えんか」「俺がひっくり返るような失敗をしてみろ」と言われて、顧客に教わりながら知識を蓄えていく。初商いで勝手に売値を決めて大損を出しても、上司や先輩たちは祝杯をあげてくれた。次の上司は小さな顧客ごとに商品を準備して、一日何社も回って売上を積み上げている。商売の原点を学んだように思った。 1年の研修期間を経て数社を任されて営業に回る。担当の大手商社の営業マンが、展示会で大小400もの顧客それぞれに、相手の求める商品を提案している姿を見て強くあこがれた。 しかし、大手取引先や同業者の倒産はまだ続いていて、30代の先輩も会社を去って、経営陣は給与をカットしている。「楽しい会社なのにここまでしないと生き残れないのか」とショックを受けて、ひたすら自分の業務に没頭する日々。 競合会社の営業マンが来ない時間を狙って夕方から得意先に張り付いて、長時間話し込んでは飲みにも誘われ始める。展示会での顧客の商品陳列の工夫を、自分なりにこだわって提案などもすると、「君が言うのなら買おう」と、過去にない量の仕入れもしてくれて目標を着実にクリアし続けた。 しかし、会社からは更に高い売上を要望されて、「俺は達成しているのに…」と開き直って「もう辞めます!」と叫ぶたびに、先輩たちから「何か手伝えるか?」と気を配られて踏み止まった。教師になった友人などは激務で疲れていて、「みんな同じなんだ」とも感じていた。 約束した納期になっても商品が完成しないことも度々で、「二度と来るな!」と顧客から怒鳴られて、先輩と飲むたびに「おかしい部分は変えましょうよ」と話して、すべての顧客を大切にしたい思いを上司にぶつけていた。 次のページヘ |
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