イキイキした母を見て手に職をつけてずっと働こうと思った。
基礎を学ぶために責任ある仕事に携われない3年間。
会社に想いを伝えて27歳で企画職に就いた。

引っ込み思案でいつも誰かに支えられながら好きなことを続けて上達を楽しんだ子ども時代。両親のように手に職をつけて、結婚してもずっと働こうと外大に進んだが、冊子づくりに夢中になってニッセンに入社する。しかし、数年の責任もなく地味な業務の日々にあせりがしだいに募っていく。意を決して想いを会社に伝えて、27歳には念願の商品企画職に就いた。

栢分 千晶さん 33歳 京都市在住
[株式会社ニッセン(南区)商品企画本部 シニアマーチャンダイザー]

好きな道を目指して大学に進学して、いつも誰かに支えられていたことに気づく。

 勤務先が倒産しても技術を買われて地元の舞鶴で再就職した父と、料理教室や洋裁の内職をする母。ピアノなどの習い事をねだると必ず通わせてもらえて、上達するのが楽しくて長く続ける子ども。引っ込み思案な性格で、おもちゃづくりや古着のリフォームを趣味にする親戚の兄たちが素敵に思えた。夕食後でも家族が集まるリビングで本や漫画を読んだ。
 小3でできた親友が遊び仲間の輪の中に引っ張り入れてくれて、少しずつ意見を言えるようになる。涙ながらに生徒にぶつかっていく担任にあこがれて、将来の夢は学校の先生。しかし、結婚と仕事の両立は考えなかった。
 荒れた中学では、先生にでもズケズケとものを言う同級生たちがうらやましい。偏った考えの担任や生徒の反発に泣くだけの先生を見てあこがれは消えて、先輩たちの仲の悪さがイヤで部活も辞めた。洋楽や洋画に興味を持って、大学進学を意識して塾に通い始めた。
 高校に入ると、外で働き始めた母は世界が広がったようにイキイキとしている。その母の入院中に、父が小さな交通事故を起こした。妹を連れて何をすればいいのかわからず、初めて人前で泣きじゃくりながら、近所の人に助けを求めて自分の無力さを感じた。
 親戚の兄たちが進んだ東京の大学に進みたい。洋画のキャリアウーマンにもあこがれる。子どもができるまではしっかり働こうと猛勉強して、家庭に入っても仕事を続けられる語学を身につけるために京都の外大に進んだ。
 小3のときの親友と同居して生活全般をリードしてもらい、外国人に京都案内をするサークル活動を楽しむ。そんな3回生のときに一緒に住み始めた妹から、実は両親が苦しい家計のなかながらすべり止めの大学にまで入学金を払ってくれていたことを知った。
 「もう私自身がしっかりしなきゃ」と意識が変わった。勇気を振り絞って観光地で見ず知らずの旅行者に声をかけ続けた。雑誌を見ては部屋の模様替えを何度もしたり、新入生向けのサークル紹介の冊子をみんなと力を合わせて作るのが楽しかった。


カタログづくりがしたいとニッセンに入社。しかし思い描いた仕事は任せてもらえない。

 語学を活かして客室乗務員を目指したり、旅行会社に就活をする友人を横目に、出版社などに100社以上も資料請求して会社訪問をする。ニッセンから内定をもらうとすぐに、仕事内容を知ろうと内定を隠してアルバイトまでした。そこから得た情報で、配属面談ではカタログ制作ができる商品部を希望したが、貿易部勤務を命じられた。
 わけもわからず業務をこなして、大勢の同期が住む寮でおしゃべりを楽しむ1年間を経て、2年目にアパレル部門に異動。チームごとに運営される個人商店のような雰囲気や丁寧な指導の先輩方と恵まれた環境。 しかし、商談同行やサンプルチェックは楽しいが、主な業務は商品検査の準備と発注業務の補助という地味な作業。ミスをしても責任も問われず、「私が思っていたビジネスライフじゃない…」と空ろな日々を送った。先輩から「自分から企画を提案したらええやん」と助言されて初めて、服づくりには興味がないことに気づいた。
 3年目になると業務にも慣れてきて、更に余裕ができてくる。「何かすることありませんか?」と職場を訪ね回っても、「いいよ、いいよ」と、手応えのある仕事はもらえない。夕方に何度も時計を見ては、終業の5時になっていないことにため息をついている自分に気づいたとき、「私はこの会社では無理なのかも…」と、会社のトイレで涙を流した。
 一人、寮の部屋でキャリア雑誌の転職特集を読みあさった。留学や好きな雑貨店でのバイトなど、次へのステップを悶々と悩む日々が半年も続く。意を決して退職覚悟で雑貨部門への異動願を提出すると、その希望を叶えてもらった。25歳だった。


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