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大卒の肩書きがまったく通用しない音楽番組プロデュースの世界。 |
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小学校での児童会長や大学演劇サークルなどの経験を通して、多くの人を巻き込みながら物事を進める大切さに気づいた。しかし、音楽へのあこがれを捨て切れずにエフエム京都に入社して番組プロデューサーになる。一匹狼たちの集まりの中で懸命に業務を覚えて、少しずつ自分の想う番組づくりが形になっていく6年間を過ごしたとき、営業への異動辞令が下りた。 堀 秀和さん 30歳 京都市在住 [株式会社エフエム京都(北区)営業部] |
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児童会や演劇サークルなどを通して多くの人と力を合わせていく大切さに気づく。 家庭の事情で高校を出て化学メーカーの研究職に就いた父。夕食や休日はいつも家族と過ごして笑顔で話を聞いてくれて、「大学には行かせるぞ」とよく言った。社宅によく後輩たちを招いて、仕事について話を聞いては熱く語り、愚痴もお世辞も一切言わないその姿を頼もしく思った。 父の仕事に伴う転校のたびに同級生をケンカでねじ伏せ、マンガで読んだ源義経の太く短い人生にあこがれた。大勢の友人を率いて探検やサッカーに明け暮れて学級委員も務める。小6のとき軽い気持ちで始めた児童会長。その場逃れの発言を委員たちに非難され、親たちの期待の声も煩わしくて、「力任せじゃだめなのか」と逃げ出したくなる。運よく転校してからはおとなしく過ごすようになった。 荒れた中学では気の合う仲間の家でふざけたり語り合うのが楽しい。周りは誰も聞かないビートルズに熱中し、父にも感じていた「プロの生き方」をミュージシャンに重ね合わせてあこがれたが、一方で12時間バレーボール大会など、ひとつの物事を大勢でやり遂げる充実感も覚えていた。 ところが進んだ高校は集団活動にまったく力を入れておらず、少し斜に構えて「一目置かれる人になりたい」と思っていた。父は会社でのストレスからか疲れた姿を見せ始めている。「絶対に大学へ行くぞ」と毎日のように塾に通って猛勉強。とにかく広島を出たくて京都の私大に進学した。 演劇サークルで仲間との作品づくりに夢中になって副部長として積極的に発言し、軽音楽部ではプロデビューも視野に入れながら活動に熱中する。ただ、金髪に革ジャン姿の仲間の中でも一人黒髪にGパン姿で通し、ヨーロッパへの一人旅で出会った「日本人は仕事漬けだ」という外国人の言葉に、「仕事だけでなく人生を楽しみたいな」とも思っていた。 経験こそがモノを言う職人たちの集まりの音楽業界。誰も細かく業務を教えてくれない。 体重が10Kgも減るほどまで就活に没頭してもマスコミからは内定はもらえない。11月にようやくエフエム京都から採用通知が届いて、大卒の肩書きが活きる他業種の有名企業からの内定を断って入社した。 編成制作部に配属されて、研修もほとんどないまま社員というだけで制作責任者であるプロデューサーとして複数番組をかけ持つ。1つの番組に携わる5〜6人のスタッフは10歳近い年上や専門知識が豊富な人間ばかりで、自論を主張する職人たち。「マスコミ業界という大きい枠の中で生き残れ」と言う上司。誰もこと細かに仕事を教えてはくれない。 自分の感性は通じず、業界用語にも付いていけず、ただ座っているだけの企画会議。スタッフを労う飲み会に毎日深夜まで付き合い、土日はほとんど公開放送の設営や運営を手伝う。番組編成ごとにDJなどへの解雇通告をしたり、ミスを犯せない公衆放送の責任に押しつぶされそうで1週間ほど眠れないこともあった。 華やかな仕事をうらやましがる大学時代の友人たち。しかし、人生を楽しむ時間もなければ、立場上からスタッフに心を開き切れない孤独感も募る。それでも「やりたい番組が作れていないのに逃げ出せるか」と思い直して、営業の同期から社会人のマナーを教わり、先輩に質問をくり返して夢中に業務を吸収する2年を過ごした。 ときに意を決して反論したり意見を言ってみるが、現場責任者のディレクターに気を悪くされ、企画も否定される。あるときはマーケティング不足で番組聴取率を下げてしまった。そんなとき担当したある番組。DJの選曲の好みをシッカリ意識して、自分が作りたいものとの妥協点を探す我慢強い話し合いを重ねると乗り切れた。「こんな姿勢がやりたいことに近づく道なのかも」と思った。 次のページヘ |
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